メディアが現実を構築する



 野村一夫氏の「未熟者の天下」という著作のなかに「メディアリテラシーの基本は『メディアが現実を構築する』という認識だ。」という一節がでてくる。

 ここで著者はマスメディアが及ぼす影響力を三つの視点で整理している。
 ひとつは、メディアの議題設定機能。つまり「メディアがそのときのテーマを決めてしまう。」というものだ。確かに多くのメディアが報道することで、たとえその論調が特定の方向性をもっていたとしても、読者、視聴者側はその賛否に対して影響を与えられるのではなく、いずれにしても今議論されるべきはこのテーマだと指定を受けてしまう。我々は自分の意見はメディアの影響ではないと思っているが、結局メディアの指定したテーマについて議論させられているのだ。
 これは確かにそうした影響力を受けている。「あの話はどうなっちゃったのか。」と思うことが多いが、情報提供を止められてしまうと受け手側に発信力がない時代は、そのままになってしまう。
ふたつ目は、「沈黙のらせん」といわれる同調圧力のこと。「我々は自分の意見を発言する前に、それが多数派か少数派かを確かめる。その際参照するのがマスメディアということになる。マスメディアが優先意見として提示しているのと同じ意見をもつ人はより声高に発言し、そうでない人はたとえ別の意見をもったとしても「沈黙」を促す。沈黙された意見は存在しないのと同じで、多数派とおぼしき意見はますます多数派に、そうでない意見はますます少数派になる。よってマスメディアが提示した意見が圧倒的な優勢を占めるかのように現実が構成される。」という。
  三つめは、「培養効果」といわれる。「ドラマやニュースで演出の都合やニュース価値のために現実とは異なる世界が描かれる。そういう情報にきわめて長期間ふれていると、我々の現実認識が歪められる。」というもの。テレビは面白く見せようと、現実の世界から演出上都合のいいところだけを取り出してそれをことさら誇張する(つまり培養する)。ずっとこうした状況におかれると、それが現実の世界だと勘違いしてしまう。これを「培養効果」と呼ぶそうだ。

  さて、これらの三つの現象は、よくよく考えるとマスメディアという一方通行のメディア発信によるものだったと云える。
  CGM(コンシューマ・ジェネレイテッド・メディア)の台頭は、おそらくこれらの現象に少なからず変化をもたらすはずだ。まず、テーマ設定の強制も、ネット側から「あの話はどうなったの?こんな議論より大事だろ。」という意見が発信され、またそれに同調することで、マスメディアをも動かすことが考えられる。
  また、「沈黙のらせん」も、ネット社会では比較的平然と同調しない意見を発信できる。ネット社会の匿名性には議論があるところだが、「沈黙のらせん」を防ぐには、匿名性による発信もある意味では必要なのかもしれない。
  三つめの「培養効果」も、コンシューマとコンシューマの日常の情報が交換されるネット社会では、共感や安心が得られることで、ドラマの世界が異常であることを気付かせることに繋がるかもしれない。
  いずれにしても、マスメディアの影響力とCGMの影響力がお互いを刺激しあうことで、情報環境そのものは大きく進化するはずだ。

  我々の仕事は、マーケティングとコミュニケーションのオーバーラップしたところにある。しかしコミュニケーション側をしっかり把握しておかなければ、マーケティング側がプロの広告主(マーケター)と互角の会話はできない。ネット社会のコミュニケーション文化を体現していることが基本にあって、マスを含めたメディアとコミュニケーションの実態を理解するということが大事になってくる。