公共性ということ


 日本という社会は、本当に長年の官僚支配が進んでいて、役人が自らの利益のために原理原則に馴染まないルールと運用を勝手につくって押し通してきた。
 そもそも一番おかしいと思うのが、公共性の高い団体(独法や省庁の外郭団体など)がその財務内容をディスクローズしないことだ。民間企業でさえ、上場すればほとんどの内容を開示する。国民の税金で成立している公共団体は、上場企業より内容の開示義務があるというのが、世の中の原理原則である。しかるに役人だから開示しないことを違法ということにはしない。


 また、よく官舎などが相場からすると異常に安い家賃に設定されていることがメディアで取り上げられることがある。誰もコメントしないが、同じことを民間企業がやったら、家賃相場との差額は給与と見なされて税金がかかるはずだ。これも公務員同士お互いかばい合いの精神か課税されていると聞いた事がない。
 
 日本人は「お上(かみ)」に対するある種の信頼を持ってきた。不都合なことはいろいろあっても、ルールで決めたことを守って運営し、最低限のことはきっちり(融通が利かないほどきっちり)やるものだと思っていた。ところが社会保険庁の失態は、そうした「お上」に対する最低限の信頼まで崩壊させてしまった。ある意味、この最低限の信頼と引き換えに維持していたお手盛りや自己防衛のルール運用は、もう容認されないだろう。

 これほど怠惰で、自らの仕事としての意識も責任感も事務能力のかけらもない集団が長年維持されていたことに誰もが驚愕している。怒りを通り越して唖然としている。(生命保険会社が、「この保険料は誰のか分かりません」と云ったら、その瞬間潰れる。)
 これで暴動が起こらないのは、よほど大人しいのか、もう活力がない社会なのか、日本という国にポテンシャルがなくなっている証拠かもしれない。

 社会保険庁の職員OBの共済年金の支給を、問題が解決するまでストップするくらいでないと、かの役所はやるべきことが何か自分で考え、努力する力は働かないのだろう。