コンテンツの送り手としてのプライド



 従来のメディアの文化で育ってきた人たちからすると、編集権が受け手側にあるようなネットメディア文化は、受け入れ難いのかもしれない。しかし世の中は確実に、従来のメディアの送り手に大きな変化を要求してくる。
 例えば新聞は、ある意味「どの記事を何段抜きで扱うか」、「見出しをどう打つか」が新聞が新聞たる所以である。それが、記事タイトルが並列され、興味があるものがクリックされる。記事の需要はみごとにはっきりする。


今までの感覚からすれば、ネットでどんな記事が読みたいか、どんなストーリーのドラマが見たいかをその都度ユーザーにたずねて成立するメディアというのは考えられなかった。しかし、実際にそうした試みは始まっている。

 情報の消費者(受け手)が主導するコミュニケーション社会に突入したなかで、従来情報の送り手としての意識はどう変わっていくのか、変わっていくべきなのか。

 クオリティの高い一次情報の送り手として「プライド」をもって、こうした作業をしていくのは、何もメディア(媒体)があるからではなく、そもそもクオリティの高いコンテンツプロバイダーであるからだ。
 例えば欧米など先進国では、テレビはハードとソフトは事業体が分離されている。

メディアはあるカテゴリーの情報コンテンツ開発能力のある人たちをネットワークして、協力者としてメディアにおけるコンテンツをさらにブラッシュアップしていく仕組みにチャレンジせざるを得ないだろう。送り手と受け手という単純な二極構造では、より良いコンテンツ開発は望めないと考えるべきだろう。
 送り手としてのプライドと責任感を維持しつつこうした作業をするには、ネット社会のコミュニケーション文化を自然に受け入れている人でないと難しいかもしれない。