ここまで紹介してきたARGは、ひとつのジャンルとして近年確立してきたものではあるが、もちろんこれまで全く存在しなかった手法というわけではない。似たような事例は規模こそ違えどさまざまなレベルで実施されてきたともいえる。そしておそらく今後もARGあるいはそれと類似した手法は増えていくと思われる。
わたしたちは広告人として、この現象をどう見たらいいのだろう。
わたしは同様の背景を、テレビにおけるリアリティショーの台頭、あるいは「24」「LOST」などの高視聴率連続ドラマに見ている。そこには巧妙に「現実感」が取り込まれている。そこにはこれまで「作り手」がこれだけやれば観客は喜ぶだろうと簡略化して表現してきたレベルや、「表現者」がこれを言いたかったというような目線でつくったストーリーを超える、さまざまな情報のレイヤーが仕込まれている。あるレイヤーで予定調和に見えたことが、別のレイヤーの介入でまったく違う状況に置かれてしまうというスリル。案外、現実のなかでは起こっていることなのだが、これまで番組やドラマはそういうことを嫌ってきた。しかし、今の大衆は、まさに情報を複合的なレイヤーで捉えることを日常としている。きれいに整えられたパッケージよりは、複雑なレイヤーを駆使し視点そのものをダイナミックに移動させるような体験こそ求めている。
情報という価値は、かつてメディアや国家といった一部の機関が扱うものだったが、いまやネットにつながる人すべてが同様の立場に立つことができる。ひとつの正論をありがたく享受するというかたちが通じなくなったといってもいい。情報の取捨選択と評価は、生活者の手に移った。主権が権威から生活者に移行したわけだ。
つまり、企業はメディアの側から情報を流し、生活者が集まってくるのを待てばいい、ということではすまなくなってきた。むしろ企業は積極的に生活者の情報収集フィールドに下りていき、ともにエキサイティングな体験を共有しながらある方向へ能動的に向かっていくことを考えていかなければならない。マーケティングのベクトルが変わったのだ。
そのときに示唆を与えてくれるのが、今回紹介したARGなのではないだろうか。
あるブランドを所有することが、そのブランドの形成するコミュニティに加わることだと定義するなら、そのコミュニティに参加する通過儀礼としてひとつの広告やキャンペーンが機能するということもできる。
今日的な情報環境の中で、コミュニティへの通過儀礼としてキャンペーンを機能させるためには、ここで紹介したARGの深い関与と体験は重要な鍵を握る。
ARGなどの手法を取り入れた、没入型(Immersive)マーケティングは、まさに参加者の人格をある世界観にどっぷりと浸し、中毒症状にもにたある種の依存状態を引き起こし、切っても切れない関係を構築するのだ。
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