「広告の本質」の議論


 CNET広告業の新潮流 「googleの危うさと広告の本質」から

http://japan.cnet.com/column/netad/story/0,3800075540,20368039,00.htm

 まず「広告がうっとうしい」という議論は大昔からあって、広告屋はそういう批判と闘って来た。広告表現は情報ユーザーへの受容性とメッセージ訴求の両立を目指して進化してきた。ネット広告がより「うっとしい」と感じるとしても、表現力がまだ過渡期であるということも云える。

 グーグル的広告の成長は、ネットユーザーに検索情報としてのテキスト型広告をマッチングさせたことと、ある意味「効果を買う広告」の量り売りの仕組みが、ネットマーケティングの成長とリンクしたからであって、これを広告と呼ぶかマーケティングツールと考えるかは広告主次第だ。今になって振り返ると、サーチワードに対してダイナミックに広告バナーを掲載することはネット広告の黎明期からあった訳で、オーバチュアやグーグルは検索結果として見せたことで成功している。
 そういう現象も含め、広告らしくない広告が、広告フォーマットにしても、広告表現にしても、今後どんどん出てくるのだと思う。


そこで、この記事の「広告の本質」というワードに反応すると、「有限であり、希少価値があるからこそユーザーにとって価値があるのです。また広告掲載箇所は、“広告である”とユーザーから認められ、その上で広告主にとっても広告効果が高いものなのです」。」という議論は、従来そうであったという意味ではそうだが、大きなトレンドはこれを許してくれないだろうから、我々はそれに対応しようという話にしかならない。今後も希少性が高い広告枠は存在しつづけるだろう。しかし広告に希少価値があるからユーザーにとって価値があるのではなく、広告がユーザーにとって有益な情報になっているから価値があるのである。ユーザーは広告でもメディアでもなくコンテンツに価値を見出している。広告枠の希少性は、希少性のあるコンテンツとの接点に発生するのであって、(スーパーボウルのCM枠が効果が高くかつ有限で希少性が高いのは、スーパーボウルというコンテンツのおかげ)広告枠が有限だから価値があるというのは少し違う。
 
 またユーザーにこれは広告だと認められる広告掲載箇所が良いということも、一面ではそのとおりというか、ユーザーからすればコンテンツと広告が区別整理されている方が良いということだろう。
 しかし主導権が受け手である消費者側になっていくと、広告らしい広告に効果が期待できなくなるという一面も考えなければならない。そこで送り手によるメッセージ感のない、受け手に擦り寄ったコンテンツはでてくると思う。そうした意味でも広告の概念はかなり変わってくるだろう。従来の概念での本質は変わらないが、概念が広がっていくとすると、広告は既存の広告業のプレイヤーだけのものではなくなる。
 従来の本質にあまりこだわり過ぎると、ビジネスがシュリンクしないか心配ではある。
 
我々は広告らしくない広告にも対応しなければならない。